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医食同源から漢方薬の展開

医食同源とは

「医食同源」は中国の古い言葉と書かれていますが、真柳誠氏によると、「医食同源」という言葉は1972年代の日本人の造語であることが分かりました。

「医食同源」の思想は、五味論の発展とともに生まれ、中国薬物学の本草書に大きな影響を与えました。しかし、三世紀以降、食医の知識は忘れ去られ、食宜の思想が薬膳として発展しました。現在の薬膳の概念は、北京中医薬大学の翁維健氏が初めて使用し、その後、生薬を料理に加える風潮が生じました。

この概念は、食物の栄養素とその効能の理解、また食生活と健康管理の方法に深く影響を与えています。また、薬膳という言葉は日本語にも定着し、近年では流行の一つとなっています。しかしながら、その由来や本来の意味はあまり知られていません。

食医の思想が忘れ去られた一方で、食宜の思想は薬膳として現代に影響を与え続けています。薬膳は、食物の適切な組み合わせや選び方を通じて、健康の維持と改善を目指すものです。

「医食同源」という言葉とその思想は、時間を経て形を変えながらも、我々の食生活と健康に対する理解に深く影響を与えています。その影響は、今後も続くことでしょう。

医食同源のルーツ食医の存在と五味

中国古代には食事療法の専門医が存在したとされています。「周礼」の天官によれば、医師四種の中で最も重要なのは食医で、彼らは王の食事を調整する際に、「春には酸味を、夏には苦味を、秋には辛味を、冬には塩味を多くし、甘味を滑らかにする」という五味を重視していました。疾医(内科医)でも、「五味・五穀・五薬を用いて病を養う」とされ、瘍医(外科医)では、「五毒を用いて病を攻め、五気を用いて病を養い、五薬を用いて病を治し、五味を用いて病を節する」とされており、ここでも五味が重視されています。五味を使わないのは獣医だけです。

古代中国の食医は、食事療法の専門医で、五味(酸味、塩味、甘味、苦味、辛味)を重視していました。五味は食物や薬物の作用や性格を形成する成分で、現代の栄養素に相当する概念だったと考えられます。しかし、食医の存在とその医療を伝える文献は現存していません。一方、『素問』『霊枢』などの古代の医論には多様な五味論があり、これらは食医らが展開した論説の遺文である可能性があります。

食医思想の影響 桂枝湯への発展

『神農本草経』を基に発展した中国の薬物学の歴代本草書には、通常の薬物治療に使用されない穀物・野菜・果実・鳥獣・魚貝などが初めから収録されています。ほとんど全ての食物が本草に記載されており、それらには何らかの効能が記述されています。この本草体系が背景にあるため、薬食同源や医食同源の造語が生まれました。

『漢書』芸文志に記録された『湯液経法』については、三世紀末から語られていました。また、敦煌医書が引用する陶弘景の言葉によれば、後漢の張仲景は『湯液経法』に基づいて医書を編纂しました。この仲景医書から派生した『傷寒論』『金匱要略』には、漢代の医書よりも特異的に湯液(スープ剤)が多く、そのベースはスープ料理に古代から多用される調味料である桂皮・生姜・大棗(ナツメ)でした。そして、『金匱要略』には食宜・食禁の議論もあります。

食禁書の『神農黄帝食禁』以外にも、食宜書の『神農食経』という書もあったと推測できます。これらの点から、中国医学体系の最古典すべてに食医の思想と知識が影響を与えていたと認めざるを得ません。しかし、これら医学古典が揃った三世紀以降、食事治療体系は急速に忘れさられていったようです。その原因として、薬物治療に及ばなかったことが挙げられます。食宜の思想は本草の世界に引き継がれ、桂枝湯をはじめとする漢方薬に発展します。

文献:

真柳誠「医食同源の思想-成立と展開」『しにか』9巻10号72-77頁、1998年10月

https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/sinica98_10.htm[2024/06/16 11:45:46]